認識論-観念はママから?-
「認識論」とは「存在論」と並んで近代哲学の最も有名な命題と言っても過言ではない。「認識論」ではヒトの外の世界を諸々の感覚を通じていかに認識していくかを論点とする。本稿では各哲学者の主張を踏まえ纏めていく。
*大陸合理論ーすべての確実な知識は生得的で明証的な原理に由来すると説く立場。
デカルト(1596~1650)
大陸合理論の代表、デカルトは「精神」を独立した実体と見て、精神の内側に生得的な観念があり、理性の力によって精神自身が、観念を演繹して展開していくことが可能であるとした。
理性とは、誰がどのように考えても同一の結論に到達するという、プラトンが提唱した理想的完全的な観念(=イデア的な観念)を源泉とし、このような思考には経験内容から独立した概念が用いられていると考えた。
つまり、1+1=2であること、善悪の区別や道徳などは後天的経験の中で培われる観念ではなく生まれながらにして理解しており、人間には先天的形式があるということである。
いや、ちょっと待て、俺たち生まれつき善悪はなかったしママから全て教わってきたじゃないか
そう思った読者は少し待たれたい。デカルトが言っている「人間なんだから観念を演繹して展開できるよね」がポイントになる。
人間は全ての観念をインプットする必要はなく、1のインプットから自己増殖的に観念を増やしていけるのだ(お金もそうやって増やせたらいいのにな。)
ロボットに覚えさせることを考えるとわかりやすい。
ある日、太郎君は誕生日プレゼントに買ってもらった最先端コンピューターロボット”チャッピー”に「人を殴ってはいけないんだよ」と教えました。「なんでだめなの?」「殴ったら痛いじゃないか!」「そうか、人間は殴ったら痛いのか。わかった!チャッピー人間殴らない!」チャッピーはすっかり理解しました。
次の日、警察から電話がありました。「おたくのロボットがね、道端で犬に暴行を加えているところを見かけましてね。困りますよちゃんとしつけしてもらわないと」
「チャッピー!昨日教えたじゃないか、殴ったら痛いから殴ったらいけないって。なんで約束破るんだよ!」チャッピーは明るい声で答えました「だって殴ってはいけないのは人間だけだからね!」
ロボットは、入力された値に対して確実に理解する。一方で、「友達は殴ってはいけません」と言っていたので殴ったら痛いと感じる犬も猫も殴らないようにする、といった人間が当たり前のように行う演繹的展開は行わないのである。
これが理性の有無を表しており、人間は生得的に観念を持っている、というデカルトの主張の本質と言える。もう1哲学者もみてみよう。
ライプニッツ(1646―1716)
ライプニッツはジョン・ロックのデカルト批判を受けて、精神と物質を二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる切り口の認識論を展開する。
世の中に存在する万物は「モナド」と呼ぶ微粒子によって構成されると考える。モナドは原子や電子のような物理的素粒子とは関係なく観念上の単子である。
また、このモナドを用いて、世界が最善になるように神が予めプログラミングしている、と考えライプニッツにとって世界に偶然は存在せず、一つのモナドを最初に神が弾いた時から次のモナドに衝突し、また次のモナドに・・という連続的かつ非干渉的な世界観を描いた。
ライプニッツは「神によって定められた世界調和の確証として、自然および社会における個々の悪は、全般的な善によって償われる」とする予定調和論に基づく楽観論を持っており、フランスの哲学者ヴォルテールが著作「カンディード」でライプニッツの楽観論を批判している。
誰でも、自分の人生を何度も呪ったことがあるはずです。誰でも、自分がこの世で一番不幸な人間だと何度もつぶやいたことがあるはずです。
- ヴォルテール「カンディード」 -
デモクリトスの原子論に影響を受けていることは間違いなく、実物質の原子から観念上の粒子を想定し、認識論を確立しようとしたライプニッツは、現象学や形而上学にも大きな影響を与えたことに違いない。
*イギリス経験論ーすべての哲学概念の有効性を人間経験の裏づけから判断する立場。
ジョン・ロック(1632ー1704)
ジョンロックと言えば、「われわれの心はいわば白紙(タブラ・ラーサ)」があまりに有名だが、デカルトら大陸合理論に対して、観念の起源はあくまでも経験であり、我々の側にあるのはせいぜいそれらを認識し、加工する能力だけだという主張をした。
つまり、知識や観念はすべて五感を通じて得た経験によるもので、生まれもった知識や観念は存在しないという考えである。(なるほど。熱血体育会系だぜ。)
彼によれば、「赤い」「硬い」「すっぱい」など今までの経験を組み合わせることで、対象をリンゴだと認識することはでき、五感から得る印象を単純観念、組み合わせてできた「リンゴ」という認識を複合観念と言う。
また、この考えにより、ベーコンらによる帰納法が台頭したことも言及しないわけにはいかない。帰納法とは、経験により多くのサンプルを集め、一般論を導き出す方法で、独断的ではなく、経験や実験による裏付けがある点で有力と言える哲学的思考の1つ。
フランシス・ベーコン(1561ー1626)
ジョンロックの章でもあげた通り帰納法という多サンプルから一般論を導きだす思考法を重んじたベーコンは、ロックと同じく知識はすべて経験によって得られると主張し、思い込みや偏見が正しい知識の習得を阻害する「イドラ」という観念を考えた。
イドラには4つの種が存在する。1つ目は、種族のイドラである。目の錯覚や擬人化のような人間に共通して備わった感覚による偏見。
2つ目は、家庭環境や個人的な体験による狭い考え方である洞窟のイドラ。3つ目は、伝聞した噂話や聞き間違い、インターネットの情報など市場のイドラ。4つ目は、人気番組や偉い人の言葉などの言葉を信じてしまうような劇場のイドラ。
知識は力なり。
Knowledge is power.
こんな名言を残している、知識を重んじた彼だからこそ後天的な知識の習得、そしてそこには4つのイドラに分類されるような偏見が存在するので、正しく知識を身につけ実社会に応用するべきだ、という認識論を唱えている。
以上、認識論にまつわる大陸合理論とイギリス経験主義のそれぞれ哲学者をみてきたが、筆者としてはこの丁度折衷案が最良と考える。(あら、いいとこ取りの良い考えだわ)
我々はロックが唱えたような「真っ白い石板」に後天的に色を塗るような画家ではなく、先天的形式が生まれた時に既に何等かの色を塗られている。
一方で生得的観念を強化しすぎると優生学的思考にも繋がる点は意識されたい。ナチスの大量虐殺やデザイナーズベイビー(胎児の内に遺伝子改良して優れた子にする)などはまさに代表的な優生学思想である。
遺伝子学研究が進歩する現代において、親から子に引き継がれる形質は間違いなくあり、人体病理学の見地からも、うつ病やがんはそれぞれの発症実績のある親から生まれる子の発症率はそうでない子と比べて高いことが報告されている。
そういう視点では、確かにあらゆる点で遺伝子に依存することは明確になっている一方で、じゃあ何が正しいか?何が最良なのか?倫理的課題は別問題としてしっかり考えないといけない。
つまり、遺伝子レベルで先天的形式を持ちながらも、経験的側面も大事にするハイブリッドな考え方が求められているということにして、お後がよろしいようで。