哲学をビジネスに。-思考武器の育成-

哲学、もっと言うとリベアルアーツ、教養を身につけることでビジネスで活躍、より生きやすくなる人を生産していきたい。

心身二元論-僕の彼女は脳みそ-

哲学ってどうもわかりにくい言葉が多いのが実情である。(よく似た言葉多すぎんだよ)

そこで単純に語意説明ではなく、たとえ話なども使いながら理解していくことを目的に紹介していく。

本日の紹介は「心身二元論」、デカルト(プラトンが実は最初だけど綺麗にまとめたのがデカルト)が唱えた心と体は別にあるよねという観念のこと。

【心身二元論(しんしんにげんろん)】

⇒物(身体)は延長を本質とし、心(精神)は非延長的な思考を本質とするから、両者は異質な二実体であるとするデカルトの説。物・心の間の依存関係や相互作用が説明できないという難点がある。物心二元論(ぶっしんにげんろん)。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

難しくてよくわかりませんが、つまり心と体は独立する別物ですということ。さらにデカルトは肉体は単なる入れ物に過ぎず、心こそが人間を形成する主体だ、と主張しています。(身体<精神という構図)

一方で、対立する「心身一元論」がありますが、こちらは身体と精神はセットで成立する、という考え方です。心(精神)は身体のどこかにあり、腕や頭と同じく心(精神)は一部なのだということです。

二元論の話に戻ります。独立した別物を考えるということはどういうことなのでしょうか。2点考えてみます。

1点目、AさんとBさんがいます。Aさんが不治の病で腎臓が弱っています。そこへBさんのドナー提供があり移植手術は無事に成功しました。

この時に、Aさんは元の人物と同じと言ってもよいのでしょうか。
「もちろんだぜい、手術前と何も変わらず話もできるしね」という立場が心身二元論者、「いやー少し変わってしまってるね」というのが心身一元論者。

心身二元論では、独立したものとしているので、”入れ物”である身体がどう変わろうと精神には何も影響しないので一緒だということです。

心身一元論では、同じものとして扱うので、体の一部が変わってしまえば異なるでしょーということ。(実際にそんな厳密に考える人は少ないだろうが..)

2点目、体と精神が別々なのであれば、何が人間を人間たらしめているのか問題です。

極端な話、特別の液体でひたひたの水槽に脳みそを浮かべて、電気信号を送ることで会話ができるのであれば、それは人間とみなしていいのか。

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「いやーさすがにそれはきついっしょ、ぷかぷかしている脳みそを彼女とは思えんわ」と思ったそこの貴方。目をつぶって話をしていればイメージを頭の中で作りあげ、まさしくそこにいる人と会話している気分になれるのではないのだろうか。

ということは我々は肉体、に人間味を見出しておらず、精神(ここでいくと話が出来るという対象)に人間味を見出していることになりそうです。

ここで昨今、精神や心というのは脳みそ?という議論が起きていますが、そうなると脳死判定の議論や人工移植への批判など道徳的な論争が巻き起こります。

骨髄移植をすると性格が変わった、好きなものが変わった、というデータは世界中で事例を更新していますが、では脳みそだけが人間足らしめているのではなく、身体の一つ一つ(脳みそを含め)が人間を形成している、という考えが正しく見えそうです。

そうなると、人工移植をして体の一部が他の人と入れ替わればもう同じ人ではない、とみなすことにもなりそうです。

いまだに熱く論争のある心身二元論VS心身一元論、どちら派ですか?