哲学入門-簡単に説明する有名哲学者5選-
やって参りました。哲学者多すぎて分からへん子羊の時間です。今日もサクッと重要な人物だけ纏めてみました!
- アリストテレス(紀元前384年~紀元前322年)
- ルネ・デカルト(1596年~1650年)
- トマト・ホッブズ(1588年~1679年)
- シャルル・ド・モンテスキュー(1689年~1755年)
- イマヌエル・カント(1724年-1804年)
アリストテレス(紀元前384年~紀元前322年)
全ての人にとっての友は、誰の友にもなれない。
(A friend to all is a friend to none.)
—アリストテレス
アリストテレスといえば、プラトンの弟子です。ソクラテスの弟子のプラトンの弟子の弟子がアリストテレスですね。
((
プラトンってだあれ?ハイブラの名前?と思った人は以下を。
)
アリストテレスは「万学の祖」と言われ、論理学、天文学、生物学、弁論術、詩学などかなり広く知識を体系的に纏めた哲学者です。
沢山調べて学問を学んでいたアリストテレスですが、それだけでなく学問の素となる「物事の考え方」を立ちたてました。
これはどういうものかという、共通する「存在」「実体」「本質」についての探求であり、そもそもそれはなんですの?という考え方です。
人間について研究する場合は、そもそも人間ってなに?
飛行機の飛行時間を延ばす研究であれば、そもそも浮力ってなに?
といったことを理解しておかねばということです。
そんな難しいアカデミックマニアなアリストテレスもすごくヤンキー漫画のような阿智心情を持っていたりします。(マイキー派です)
冒頭にあげた名言の中でも、誰からも好かれるような八方美人をしている人間は表面上は中心にいてるように見えているだけで、実は誰からも好かれていないよね、ということを書いています。
人情深く、それでいて勉強熱心なアリストテレスはさぞモテたんでしょうね。(羨望のまなざし)
ルネ・デカルト(1596年~1650年)
我思う故に我あり
(I think, therefore I am)
—ルネ・デカルト
デカルトと言えば有名なのはなんと言っても以上の名言(これ聞くとルカリオの波動は我にありを思い出しちゃう)
デカルトは一見正しいように見えるすべてにおいて疑って(メンヘラ彼女のように)最終的に疑いようがなくなればそれが真理だという方法的懐疑を提案。
好きなあの子は本当に昨日好きだったあの子なんだろうか?ここにあるコーヒーカップは本当にここにあるのだろうか?一日は24時間を言っているが本当に24時間なのだろうか?
などなどあらゆることに挑戦していったんですね。そして何もかもわからなくなって発狂していたところ一つだけ正しいことが分かったんですね心理が一つだけあるじゃないかと。
それがかの有名な「我思うゆえに我あり」つまり、見えるもの、感じるもの全てに疑う余地があるとしてもただ一つ、疑っている私がここにあるという事実だけは疑う余地のない真実である。ということです。
痺れますねー。なにもかも真理かは分からないけど、今そんなことを考えているのだからか自分はいるでしょう!と普通おもいつかないですよね。
そんな心理・思考を追究していデカルトは、心身二元論という理論の第一人者でもあります。ただこれかなり複雑になるので別記とします。
ストイックに自分を見つめなおした自己分析の究極系とも言えるデカルトは近代哲学の父として名をはせているのでした。
トマト・ホッブズ(1588年~1679年)
国家は必要なのは、
人間が生まれつき悪だからではない…
人間が本質的に社会よりも
個人主義的であるからだ。
(Government is necessary, not because man is naturally bad... but because man is by nature more individualistic than social.)
—トマス・ホッブズ
ホッブズ、皆さん聞いたことありますか?実は有名な「リヴァイアサン」という著者がこのトマトなんです。(イタリアっぽいけど出身はイングランドです)
遊戯王やゲームでも度々竜のような怪物として登場しますが、まさにこれです。
ホッブズは本著で「国家論として、国というものはこういう風にできているよねー」ということをとてつもなく長く書いているのですが、かなり纏めると、国民は放っておくとすぐ喧嘩するからある一定数のルールなどを国に取り仕切らせて、その中で営むのがいいよねと書いています。
つまり、国=リヴァイアサン(怪物)と社会的契約をして、生きる為の権利を委託することで最低限の安全を保障できるよね、ということです。
なるほどー。国がなく自由奔放に生きていたサピエンスの時代と科学的で文明として生きている人間、ではこの社会契約論の元に立脚しているのかーと妙に筆者は納得しました。
そんな壮大なスケールな著作がある彼ですが、とある数学の問題の解を見つけたぞ、と公表したがそれが誤っており数学者とバチバチに論争に発展しました。
とうとう死ぬまで自分の過ちに気づけなかったのは頑固でお茶目な一面かもしれません。
シャルル・ド・モンテスキュー(1689年~1755年)
真に偉大な人間になるには、
人々の上に立つのではなく、
彼らと共に立たなければならない
(To become truly great, one has to stand with people, not above them.)—シャルル・ド・モンテスキュー
モンテスキューは人間本来の思考や性質を深く理解しようぜ!という思想を唱えた一人です(啓蒙思想)
教会や宗教のような超自然的なものをそのまま放置せずに、自分たちの理性でしっかり把握していこうぜ、ということです。(おおこれは神の思し召しじゃーという理屈なしを辞めようぜという話)
この啓蒙思想はまさしく、貴族や聖職者などの権力独占組をぼこぼこにするフランス革命などにも通じる歴史的転換点ともいえます。(結局ここで勝ち取った資本主義的思想は現代にも引き継がれている)
そんな一大ブームを巻き起こした現代でいうヒカキンのような人間ですが、実は人生哲学としてもかなり有力な名言を幾つか残しています。
この世で成功するコツは、
馬鹿のように見せかけ、
利口者のように行動することである。
多くの場合、成功は成功するまでの
所要時間を知っているか否かにかかっている。
ただ幸福になりたいと望むだけなら簡単だ。
しかし他人よりも幸せになりたいというのならば、それは困難だ。
我々は、他人はみんな実際以上に幸福だと思っているからだ。
イマヌエル・カント(1724年-1804年)
動物を残酷に扱う人は
人間関係においても辛くあたる。
私たちは動物への接し方によって
その人の心を測ることができる。
(He who is cruel to animals becomes hard also in his dealings with men. We can judge the heart of a man by his treatment of animals.)—イマヌエル・カント
動物に関する名言があるので「イヌマエㇽ」と呼んでしまいがちなのですが、イマヌエルなのでお間違いないように、笑
名言はまさしくですよね。筆者もかなりの動物好きなので賛成です。動物に対して優しい人は本質的には人間にも優しい傾向があるなと思います。
もちろん人間には理性があり、言語を司るので、過去の嫌な経験があって壁がある人もいますが動物好きは根源的には優しいですきっと(経験則的に)
さて、そんな名言からも人の好さがあふれ出ているカントですが、実はかなり凄いことを成し遂げた哲学者なんです。
主著には『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』という三つがあるのですが、理性の関心とは、突き詰めれば「人間とは何か」であり、その問いは「私は何を知りうるか」「私は何を為しうるか」「私は何を望みうるか」の三つに分けられます。
それぞれの問いが『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』に対応しています。なかでも『純粋理性批判』は、「形而上学を葬り去ることではなく、形而上学を学問としての基盤の上に打ち立てるための準備作業のようなもの」と位置付けています。
難しいですが、要するに、人間ってなにか分かってる?人間ってなんで生きているの?人間って何がしたいの?について固定観念を覆すような理論を提唱したのです。
そんなカントの生活は、日々起床から就寝まで、規則正しい日課に沿って生活していたことでも知られています。
カントの1日は、早朝に起床、自宅で少し研究をした後、大学で講義を行って帰宅、人を招いた食事会、そして常に決まった時間に散歩をしていました。
散歩の時間もあまりに正確だったため、人々はカントの姿を見て時計の針を直していた……、という逸話もあります。
自分に厳しく、道徳的で、勉強熱心だからこそ偉業を成し遂げられたんだろうと思います。