哲学をビジネスに。-思考武器の育成-

哲学、もっと言うとリベアルアーツ、教養を身につけることでビジネスで活躍、より生きやすくなる人を生産していきたい。

哲学入門-哲学とは結局-


ようこそ、初めまして。

このブログにたどり着いたということは哲学、という学問にそれなりに興味がある方とお見受けします。哲学は多解釈な学問であり、その性質ゆえいまいちよくわからない、というコメントはよく聞く。

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「哲学とはなんぞや?」という興味を多くの人が抱き、グーグルに聞いてみては、???になり速やかにスマホを閉じる。(こりゃ、お陀仏だ・・)

古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派論理実証主義現象学など諸科学の基礎づけを目ざす学問生の哲学実存主義など世界人生根本原理を追求する学問となる。認識論倫理学存在論などを部門として含む。— 『広辞苑』第五版、岩波書店、1998年、「哲学」より

哲学について広辞苑の説明では以上に終始し、初学者にはかなりハードルが高い。

かみ砕いてみると「あんたなぜ生きるのさ」「人間とはどういう生物なんだろね」「国家とはどうあるべきか」など、一筋縄ではいかない疑問に対して改めて考えてみよう、というだけで実際難しい学問でもない。(まあ難しく書いている書籍も多いのだが)

昨今「人生哲学」と表した書籍も増えているが、それもいわゆる「生きている中で色々考えてみた所こういうことが分かったんでシェアするよ聞いて」というだけである。

個人的には、哲学という掴みどころのないワードはさておき、物事について深く考察して自分の考えをまとめる、というプロセスは思考力の鍛錬として有意義だと思う。大きく2点ある。

1点目は、現代は情報社会であり、あらゆる情報にアクセスできるからこそ改めてなんとなく知っている気にならずに本質的な洞察力を身につけることは情報リテラシーの醸成に役立つということ。

コメンテータが〇〇と言っていた、政治家が歴史事実について引用し演説していた

あー確かに最もらしく聞こえることもあるだろう。では果たしてそれは科学的根拠に基づき、拡大解釈されてはいないだろうか。

事実、ニュートンですら光の正体を暴けなかったし、ヒトラー率いるナチス党が起こした人種差別はやはり正しくないことは明らかである。

あらゆる哲学者や物理学者、時には国家を担う雄弁なリーダーでさえ、誤った思考を行うものなのである。

全ての物事において鵜呑みにせず、デカルトに倣い懐疑的に対応することこそ、情報社会に生きる我々現代人に必要とされる素養の一つと言える。

2点目は、冷静に物事を考察してみて、新しい発見をしてみたり、自分の見解を育成することで視野を拡大し、人生や物事を俯瞰的に捉える力が養われる点。

学生であれ、社会人であれ、自分や世界を見つめなおす時間を豊富にとれている人間はごく少数で、ほとんどは自分のやるべきタスクに追われ、疲れ切って眠りにつけばまた翌日も同じような時間を過ごしている。

哺乳類の中でもやたらと長い寿命を持ち(医療の進歩万歳っ)理性を持つサピエンスは、考えることで競争社会を生き抜いてきた。

犬はもし自分が鳥だったらどうだったかなとは考えないし、蟻もクジラみたいに大きかったら踏みつぶされないのになとは考えない。

サピエンスだけが唯一、多分に余白を残した人生を謳歌できる種なのである。

そんな特徴的思考を、ただ無意識的に生きることでボツにしてしまうのはもったいない(もったいないお化けが出るぞ)

身の回りや世界の動向に興味を持ち、調査し、自分の見解を持つサイクルを繰り返すことで広い心で世界というものを捉えられるようになるのである。

ただ、冒頭で述べた通り、何からが哲学で、何から手を付ければいいのか分からない、という人に向けて本ブログでは大きく4つのコラムがある。

➀「哲学入門」では哲学の面白さや哲学者の紹介をしている。まずは哲学者がどんなことを主張してきたのか、から勉強していけるコラム

②「人生哲学」では偉人の名言と考察を紹介している。そういう考え方もあるのか、と視野を広げるには良いコラム

③「哲学用語」では哲学で取り扱う用語の解説をしている。用語を切り口にすることで人の名前や年号などを気にせず概念インプットができるコラム

④「5分哲学」では思考実験を用いて、思考力を鍛えたり、柔軟性を育むのに適しているコラム

どこから着手してもらっても構わない。取組みやすいなと思うコラムから読み進めて、わからない箇所がでてくればその都度ぐぐったり、書籍を買うなりしてより理解を深めることで知的探求の楽しさを存分に味わってもらえると思う。(楽しいぞ!)

私がいいなと思った概念や思考を取り上げてはいるし、これからもどんどん拡充していくが、本稿があしがかりになればそれで充分だと思っている。楽しさや有用性に気づく人を増やせれば本望である。

さあまずは、5分哲学から始めてみよう。

 

仮言命法と定言命法-本当の善とは-

今日も今日とて、哲学用語を学んでいくとする。(わーい)

まずは二つの基本的な語義についてだが、以下のようになる。
仮言命法=「もし〇〇だとすれば△△せよ!」
定言命法=「常いかなる時も△△せよ!」

特に定言命法は、カント倫理学における根本的な原理であり、無条件に「~せよ」と命じる絶対的命法であり、『人倫の形而上学の基礎づけ』 (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten) において提唱されている。

なぜカントは定言命法を支持したか?そこに今回の肝となる学びがある。

カントによれば、仮言命法における、もし〇〇だとすれば、を行動理由とする場合、その背後には、その命令を実行することによって得られる何らかの成果や利益となるような別の目的が存在する、と考える。

つまり、命令自体が目的にはならず、その命令を実行することによって得られる結果や利益に目的があり、仮言命法における命令の内容自体は、あくまで、そうしたより重要な別の目的を達成するための手段として位置づけられているに過ぎないと考えられることになる。

とある日、高齢の方が倒れているを発見すれば、もちろん読者の皆様は助けることと思う。(いや、そうであってくれ)

しかし、仮言命法の場合、助けること自体を目的とするのではなく、助けることで得られる地位・評価の向上や自己肯定感の高揚を目的とすることになる。

更に恐ろしいのは、もし時間があれば~、もし困っているように見えたら~、といった仮説を持ってきた場合に助ける義務が一掃されてしまうことにある。

他のあらゆる倫理学の原則は「~ならば、~せよ」という仮言命法であるのに対して、カントの定言命法は「~ならば」という条件が無い『無条件の行為』を要求する。

「果たしてそれは理性的なの?非道徳じゃない?前提や真なる目的が無くても、善行をすべし」というのがカントの簡単な主張になる。

ただ、ここに少し一石投じたい。

進化論的見地から言わせると、我々サピエンスが損得勘定と無意識にするのは何百年の歴史の中で培った生き残る為のツールである。

自己犠牲を図る種よりも、損得考えず行動する種よりも、何が自分にとってメリットがあるか考える種の方が生存率、繁殖成功率が高くなる。

その結果、損得勘定を持つ遺伝子が代々受け継がれ、現代の遺伝子の房にぶら下がっているわけである。

つまり、損得勘定をしてしまうこと自体は認められるべきであり、それ自体が醜いことではなく、それを受け入れた上で、人の為世の為に行動できるとよい。

日本は無神論者に思われるが、お金のことを考えたり、自分の利益を追求することがまるで犯罪かのように思われ、それをばれないように潜めている。

その結果「こんなことを考えてしまう自分はなんて小さい奴なんだ!」と自己否定する声を聴くが心配ない皆そうだ。(じゃなきゃ今頃ここにいないぜ)

自分を責める必要もなし、損得勘定を考えないようにする必要もなし、だがだからと言って善行をしないのはそれまた寂しい社会になる。

ここまで言えば何を言いたいか読者に伝わっているだろう。清く生きよ。

 

認識論-観念はママから?-

「認識論」とは「存在論」と並んで近代哲学の最も有名な命題と言っても過言ではない。「認識論」ではヒトの外の世界を諸々の感覚を通じていかに認識していくかを論点とする。本稿では各哲学者の主張を踏まえ纏めていく。

*大陸合理論ーすべての確実な知識は生得的で明証的な原理に由来すると説く立場。

デカルト(1596~1650)

大陸合理論の代表、デカルトは「精神」を独立した実体と見て、精神の内側に生得的な観念があり、理性の力によって精神自身が、観念を演繹して展開していくことが可能であるとした。

理性とは、誰がどのように考えても同一の結論に到達するという、プラトンが提唱した理想的完全的な観念(=イデア的な観念)を源泉とし、このような思考には経験内容から独立した概念が用いられていると考えた。

つまり、1+1=2であること、善悪の区別や道徳などは後天的経験の中で培われる観念ではなく生まれながらにして理解しており、人間には先天的形式があるということである。

いや、ちょっと待て、俺たち生まれつき善悪はなかったしママから全て教わってきたじゃないか

そう思った読者は少し待たれたい。デカルトが言っている「人間なんだから観念を演繹して展開できるよね」がポイントになる。

人間は全ての観念をインプットする必要はなく、1のインプットから自己増殖的に観念を増やしていけるのだ(お金もそうやって増やせたらいいのにな。)

ロボットに覚えさせることを考えるとわかりやすい。

ある日、太郎君は誕生日プレゼントに買ってもらった最先端コンピューターロボット”チャッピー”に「人を殴ってはいけないんだよ」と教えました。「なんでだめなの?」「殴ったら痛いじゃないか!」「そうか、人間は殴ったら痛いのか。わかった!チャッピー人間殴らない!」チャッピーはすっかり理解しました。

次の日、警察から電話がありました。「おたくのロボットがね、道端で犬に暴行を加えているところを見かけましてね。困りますよちゃんとしつけしてもらわないと」

「チャッピー!昨日教えたじゃないか、殴ったら痛いから殴ったらいけないって。なんで約束破るんだよ!」チャッピーは明るい声で答えました「だって殴ってはいけないのは人間だけだからね!」

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ロボットは、入力された値に対して確実に理解する。一方で、「友達は殴ってはいけません」と言っていたので殴ったら痛いと感じる犬も猫も殴らないようにする、といった人間が当たり前のように行う演繹的展開は行わないのである。

これが理性の有無を表しており、人間は生得的に観念を持っている、というデカルトの主張の本質と言える。もう1哲学者もみてみよう。

ライプニッツ(1646―1716)

ライプニッツはジョン・ロックのデカルト批判を受けて、精神と物質を二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる切り口の認識論を展開する。

世の中に存在する万物は「モナド」と呼ぶ微粒子によって構成されると考える。モナドは原子や電子のような物理的素粒子とは関係なく観念上の単子である。

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また、このモナドを用いて、世界が最善になるように神が予めプログラミングしている、と考えライプニッツにとって世界に偶然は存在せず、一つのモナドを最初に神が弾いた時から次のモナドに衝突し、また次のモナドに・・という連続的かつ非干渉的な世界観を描いた。

ライプニッツは「神によって定められた世界調和の確証として、自然および社会における個々の悪は、全般的な善によって償われる」とする予定調和論に基づく楽観論を持っており、フランスの哲学者ヴォルテールが著作「カンディード」でライプニッツの楽観論を批判している。

誰でも、自分の人生を何度も呪ったことがあるはずです。誰でも、自分がこの世で一番不幸な人間だと何度もつぶやいたことがあるはずです。
-  ヴォルテール「カンディード」  -

デモクリトスの原子論に影響を受けていることは間違いなく、実物質の原子から観念上の粒子を想定し、認識論を確立しようとしたライプニッツは、現象学や形而上学にも大きな影響を与えたことに違いない。

*イギリス経験論ーすべての哲学概念の有効性を人間経験の裏づけから判断する立場。

ジョン・ロック(1632ー1704)

ジョンロックと言えば、「われわれの心はいわば白紙(タブラ・ラーサ)」があまりに有名だが、デカルトら大陸合理論に対して、観念の起源はあくまでも経験であり、我々の側にあるのはせいぜいそれらを認識し、加工する能力だけだという主張をした。

つまり、知識や観念はすべて五感を通じて得た経験によるもので、生まれもった知識や観念は存在しないという考えである。(なるほど。熱血体育会系だぜ。)

彼によれば、「赤い」「硬い」「すっぱい」など今までの経験を組み合わせることで、対象をリンゴだと認識することはでき、五感から得る印象を単純観念、組み合わせてできた「リンゴ」という認識を複合観念と言う。

また、この考えにより、ベーコンらによる帰納法が台頭したことも言及しないわけにはいかない。帰納法とは、経験により多くのサンプルを集め、一般論を導き出す方法で、独断的ではなく、経験や実験による裏付けがある点で有力と言える哲学的思考の1つ。

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フランシス・ベーコン(1561ー1626)

ジョンロックの章でもあげた通り帰納法という多サンプルから一般論を導きだす思考法を重んじたベーコンは、ロックと同じく知識はすべて経験によって得られると主張し、思い込みや偏見が正しい知識の習得を阻害する「イドラ」という観念を考えた。

イドラには4つの種が存在する。1つ目は、種族のイドラである。目の錯覚や擬人化のような人間に共通して備わった感覚による偏見。

2つ目は、家庭環境や個人的な体験による狭い考え方である洞窟のイドラ。3つ目は、伝聞した噂話や聞き間違い、インターネットの情報など市場のイドラ。4つ目は、人気番組や偉い人の言葉などの言葉を信じてしまうような劇場のイドラ。

知識は力なり。

Knowledge is power.

こんな名言を残している、知識を重んじた彼だからこそ後天的な知識の習得、そしてそこには4つのイドラに分類されるような偏見が存在するので、正しく知識を身につけ実社会に応用するべきだ、という認識論を唱えている。

以上、認識論にまつわる大陸合理論とイギリス経験主義のそれぞれ哲学者をみてきたが、筆者としてはこの丁度折衷案が最良と考える。(あら、いいとこ取りの良い考えだわ)

我々はロックが唱えたような「真っ白い石板」に後天的に色を塗るような画家ではなく、先天的形式が生まれた時に既に何等かの色を塗られている。

一方で生得的観念を強化しすぎると優生学的思考にも繋がる点は意識されたい。ナチスの大量虐殺やデザイナーズベイビー(胎児の内に遺伝子改良して優れた子にする)などはまさに代表的な優生学思想である。

遺伝子学研究が進歩する現代において、親から子に引き継がれる形質は間違いなくあり、人体病理学の見地からも、うつ病やがんはそれぞれの発症実績のある親から生まれる子の発症率はそうでない子と比べて高いことが報告されている。

そういう視点では、確かにあらゆる点で遺伝子に依存することは明確になっている一方で、じゃあ何が正しいか?何が最良なのか?倫理的課題は別問題としてしっかり考えないといけない。

つまり、遺伝子レベルで先天的形式を持ちながらも、経験的側面も大事にするハイブリッドな考え方が求められているということにして、お後がよろしいようで。

 

5分で哲学-平等なのは不公平?-

ジョンとマーガレットは息子たちへのクリスマスプレゼントを買いにでかけた。息子は3人で、マシューは14歳、マークは12歳、ルークは10歳だ。愛情深い両親は3人を常に平等に扱うように心がけていた。今年のプレゼント用予算はひとりにつき100ポンド、と既に決まっている。

今回の買い物には、何の問題もなさそうに見えた。目当ての品物はすぐに見つかった。携帯式の”プレイボーイ”ゲーム機で、ひとつ100ポンドだ。ゲーム機を3つレジに持っていこうとしたとき、ジョンが店内に貼られたお知らせに気づいた。

150ポンドの最新機能型”プレイボーイ・プラス・マックス”を2つ買えば、オリジナルのプレイボーイゲーム機が無料でもらえるという。払う金額は同じで、もっと上等の品が手に入るのだ。
「それはできないわ」マーガレットが言った。「不平等だもの。誰か1人が他の2人よりも劣った物をもらうことになるのよ。」

「でもマーガレット...」ジョンは息子たちから最新型のゲーム機を借りることを考えて、わくわくしていた。「どうして不平等なんだい?元々もらえるはずだった物よりも劣る物をだれももらわないし、3人のうち2人はもっといいものをもらえるんだ。もしこれを利用しないと、2人はもらえるはずの上等な物をもらえなくなる。」

「わたしは、3人を平等に扱いたいわ」マーガレットが答えた。「その結果、損をすることになってもかい?」

ジョン・ロールズ「正義論」

平等、という考え方は大事な一方で、いつ如何なる時も平等を順守する、というのは少し柔軟性に欠ける考え方かもしれない。

ここで平等と公平の語義を確かめてみよう。この図がとてもわかりやすい。

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平等というのは”等しく”与えることで、公平というのは”等しくなるように”与えるという理解ができる。

文中でマーガレットは全ての息子に等しいゲームを与える「平等」を意識していた。確かに等しく与えることで喧嘩にはならないだろうし、プレイボーイ・マックスという最新式ゲームが貰えることを知らなければ届くや否やプレゼントの包装紙をびりびりに破いてすぐさまゲームを始めるだろう(ジョンはその時しょんぼりしているかもしれないが・・)

ただこれだと満足度は100%になるかもしれないが、120%になることはない。むしろ次の日に友達が最新式を持っていて自慢げに見せびらかしをしようものなら、今のゲーム機に不満すら覚えるかもしれない。

一方で、2つの最新式と1つ旧式のゲームを購入して「これは誰が誰のゲーム機というわけではないが、なんと最新式が2つも手に入ったんだ、仲良く使えるかい?」という交渉に子供は真剣なまなざしで一回ゆっくりと頷くのではないだろうか。

ヒトは心理的に最もリスクの低い、言い換えると無難な選択に魅力を感じるものだが、果たしてそれが最善な選択なのかはあらゆる場面で一考の余地がありそうだ。

例えばマネジメントでも平等な扱いをしていれば波風が立つこともないだろうが、図の紫の少年のように「ちぇっつまらないの」と感じている部下がいるかもしれない。

そんな時にみんなが同じ土俵に立てるようにお膳立てしてやるのも1つリーダーとして力の見せ所になるし、分かる部下からの信頼は必ず上がるだろう。今回のロールズの物語からそんなことが学べる。

ただ、だからと言ってさぼって努力をしていない人のために公平な手段ばかりとっているとえこひいきという刃が突き刺さることもあるので読者の皆さんは注意されたい。

5分で哲学-浮気ロボット-

2064年、仮想セックスマシーンが完成。浮気の温床による不貞観念の流行を差し止めるために政府が考案したマシーンだ。

脳へ直接刺激することにより快感を喚起し、あたかもセックスをしたかのように錯覚させることで、浮気・不倫の防止に一躍買うことを期待されている。

発売当時は反対の声もあったが、表立って利用しているとは皆公開しないものの今では国民の8割が利用している大ヒット商品だ。じいちゃんがいうには、どうやら昔の人でいう風俗に近いらしい。

このマシーンの是非についてどう考えるだろうか?開発目的は、不倫・浮気の防止にあるので、そういう意味では嫉妬深い方には有難い代物かもしれない。なにしろ肉体的な接触はなく、脳みそをちょちょっと刺激するだけで完了なのだ。

さて、浮気がよくないと感じたり、嫉妬してしまう理由は自分以外の異性との肉体的接触があるから起きるのだろうか。


そうだ。これは進化論的に正しい。男であれば、パートナーが他の男と肉体的接触をもつことで妊娠するリスクを、女であれば妊娠後にパートナーが他の女に貢ぎ、自らに投資をしなくなるリスクを察知する為にデザインされた本能と言える。

そういった側面では、この仮想セックスマシーンは健全な子孫繁殖を守るといった意味でかなり効果的であると言える。
並木 友祐 | Tagbangers Blog

ただ、もう少し感情的な側面でみてみよう。浮気・不倫は具体的にどのような境界になっているのだろうか。手をつなぐ、キスをする、ディナーを共にする、セックスをする。

いや、自分以外の誰かに視線を向けられる、ことではなく自分自身に視線が向かなくなることそのものこと自体が浮気なのではないだろうか。

そう考えると、肉体を持った人間であれ、電気をびびびと飛ばすだけのセックスマシーンであれ、自分への関心が薄れていることには変わりはない。

「そもそも脳に直接電流を流し刺激するなんて非道徳ではないのか!?」という保守派の意見の他に、パートナーへの関心を無くさせてしまう元凶にならないのかという意見も出現しそうである。

進化論的にみれば、ロボットと一抹のイチャイチャでは妊娠することもないので、他の肉体を持った人間とうふんするよりもリスクヘッジとしてよさそうだ。

一方で、道徳的、感情的な側面では、仮想セックスマシーンは褒められたものではないのかもしれない。

AIが発達し、脳メカニズムの全貌が明らかになる、仮想セックスマシーンが技術的に可能になった際、貴方は支持しますか?


構造主義-人間家畜-

哲学ってどうもわかりにくい言葉が多いのが実情である。(よく似た言葉多すぎんだよ)

そこで単純に語意説明ではなく、たとえ話なども使いながら理解していくことを目的に紹介していく。

本日の紹介は「構造主義」、一般的には以下のように説明される。

歴史主義や文化相対主義に対立する思想的立場をいい,歴史的・一回性的・機会的要因よりも共時的・普遍的・法則的要因を重視する学説やその方法を総称する。

つまり、偶然性よりも必然性、決まった型を重視する考え方ということである。

哲学的な理解をすると、人間は、何らかの社会構造(決まった型)に支配されており、決して自由に物事を判断しているわけではない、という解釈になる。*1

人間が自由意志を以て選択できているか否か、は哲学において中心的な議題の一つであるが、その”否”の意見を支持するのがこの概念である。

「いやいや、好きな時に好きなことするよ私は」と思った読者は少し待ってほしい、確かにのどが渇いたから水を飲む、ストレスが溜まってるからサウナに行く、というミクロな意思決定ができていることは疑いようがない。

ただ、この構造主義の言及はもっと深層的な所にある。それについてフランス文学者内田樹は以下のように説明する。

私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、と事実を徹底的に掘り下げたこと

例えば、社会的レッテルなどがそれにあたる。会社で役職を持っている人間は、プライベートでもある一定数その威厳を保とうとするし、警官として勤務する人間は、そうでない人間よりも幾らか善の心を持つ割合が多いのではないだろうか。

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つまり、大きな〇がありその中に中くらいの〇がある。大きな〇とは本来選択できる範囲であり、中くらいの〇が実際に選択できる範囲、ということ。意識的であれ、無意識的であれ、選択を抑制してしまっているということである。

この議論でよく取り上げられる有名な心理実験を引用しよう。スタンフォード監獄実験である。(如何にも怪しそうな名前だ..)

この実験は無差別に大学生(本当に普通の)を18人選出して、看守と囚人に分けて2週間牢獄生活をそれぞれ演じるというもの。

すると、看守は徐々に暴力性を増していき権力を乱用するようになったと報告されている。

これが本当だとすると、まさしく社会的なレッテルに精神と行動が癒着してしまうことが立証されたことになる。(ただこれは近年別実験で真偽が問われているので併せて覚えておきたい。(やっぱり怪しかったか))

人が、個人の性質で、また意志で選択しておらず、属している組織・環境に選択権を依存し得るのであれば、警官に向かって「あいつもスピード違反している!」という発言は実はとても恐ろしい兆候なのかもしれない。


*1:ーレヴィ・ストロース:フランスの社会人類学者、民族学者。ベルギーのブリュッセルで生まれ

哲学入門-哲学の面白さ-

哲学、と聞くと身構えてしまうものだが、哲学ほど自由な学問はそうない。学校教育で教え込まれてきた”正解”はいわば多数決の正解であり、真の正解とは呼べない。(数学とコナン君は常に正解だが)

国語の授業で、「この時筆者はどう考えたか?」についての回答などは千人いれば千通りの答えがあって然るべきである。もしこれが単一的回答に収まる、と主張するのであれば感受性という言葉は広辞苑から抹消されるべきだ。

さて、では他の学問と哲学を一線画したる所以は何か、それは汎用性と正解がないことである。順に説明する。

1)汎用性

多くの学問はその学問で終止することが多い。物理や数学など他学問を行き来するものはあるが、哲学ほどすべての学問・実社会を横断するものは少ない。

それは、真理を追究し、懐疑的な立場をとる哲学の性質がそうさせる。

哲学者の中には、政治や国家論、生物学などを推進する人物が多いのだが、過去の提唱が本当に正しいのか?と実証を繰り返すことで開拓が進む。

つまり、哲学的思考をベースにして、あらゆる学問、実社会における課題に対してアプローチできる、いわば最も基礎となるのが哲学である。

そういった意味では、紀元前からある古い学問とはいえども、時代を超えて現代でも特に重要視されるべきである。

2)正解のなさ

1)でも説明した通り、哲学では懐疑的立場をとることが多い。(まあ、そのせいで対立概念など出現し、全体がわかりにくくなっているともいえるのだが...)

正しいとされていることを、本当に正しいのか吟味することで先人の考えに固執せずに、概念を更新し続ける。(つまり、数学のように答えは〇〇でしたー。という画一的なものではなく、「確かにそういう考え方もあるよね」という平和的な学問なのだ。)

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昨今、時代の流れがかなり速くなり、つい先日まで当たり前だったことが「えーそれ古くなーい?」と非常識になることが増えてきている。

デスクトップPCが手のひらで動く子犬サイズになることを、動画で踊って、面白いことをしてうん億という大金を稼ぐ人間が現れることを誰が予想できただろうか?

そんな不確実性の高い現代において、今の非常識は次の当たり前になる可能性を多分に秘めており、「そんなのあり得ないよねー」というのはあり得ないのである。

つまり、数学的な、正解を導き出せる、正解を正しく理解している人間よりも常識を疑っていける人間が今後活躍する時代に突入している。(ひねくれもの?)

そういった意味では、正解ではなく様々な意見や理論を含む問題について、議論して、考えて、自分の意見を持つことができる哲学というのは最高に現代にマッチした学問であることは疑う余地がない。(これも疑ってみます?)

以上、2点の観点より、第一に現代社会を生きる我々にとって必須ともいえる思考力を養える学問であること。

そして第二に、何が正解ということがないので、それぞれの意見を以て議論をできる、ゼロサムゲーム的な敗者を袋叩きにしないみんなにやさしい学問なのである。

学校でも会社でも正しいこと、ルールが決められており、心狭い思いをしている人はかなりの数いると思うが、哲学においては、自分の意見を持っていい。

こんなに素晴らしい学問が果たして他にあるだろうか?

心身二元論-僕の彼女は脳みそ-

哲学ってどうもわかりにくい言葉が多いのが実情である。(よく似た言葉多すぎんだよ)

そこで単純に語意説明ではなく、たとえ話なども使いながら理解していくことを目的に紹介していく。

本日の紹介は「心身二元論」、デカルト(プラトンが実は最初だけど綺麗にまとめたのがデカルト)が唱えた心と体は別にあるよねという観念のこと。

【心身二元論(しんしんにげんろん)】

⇒物(身体)は延長を本質とし、心(精神)は非延長的な思考を本質とするから、両者は異質な二実体であるとするデカルトの説。物・心の間の依存関係や相互作用が説明できないという難点がある。物心二元論(ぶっしんにげんろん)。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

難しくてよくわかりませんが、つまり心と体は独立する別物ですということ。さらにデカルトは肉体は単なる入れ物に過ぎず、心こそが人間を形成する主体だ、と主張しています。(身体<精神という構図)

一方で、対立する「心身一元論」がありますが、こちらは身体と精神はセットで成立する、という考え方です。心(精神)は身体のどこかにあり、腕や頭と同じく心(精神)は一部なのだということです。

二元論の話に戻ります。独立した別物を考えるということはどういうことなのでしょうか。2点考えてみます。

1点目、AさんとBさんがいます。Aさんが不治の病で腎臓が弱っています。そこへBさんのドナー提供があり移植手術は無事に成功しました。

この時に、Aさんは元の人物と同じと言ってもよいのでしょうか。
「もちろんだぜい、手術前と何も変わらず話もできるしね」という立場が心身二元論者、「いやー少し変わってしまってるね」というのが心身一元論者。

心身二元論では、独立したものとしているので、”入れ物”である身体がどう変わろうと精神には何も影響しないので一緒だということです。

心身一元論では、同じものとして扱うので、体の一部が変わってしまえば異なるでしょーということ。(実際にそんな厳密に考える人は少ないだろうが..)

2点目、体と精神が別々なのであれば、何が人間を人間たらしめているのか問題です。

極端な話、特別の液体でひたひたの水槽に脳みそを浮かべて、電気信号を送ることで会話ができるのであれば、それは人間とみなしていいのか。

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「いやーさすがにそれはきついっしょ、ぷかぷかしている脳みそを彼女とは思えんわ」と思ったそこの貴方。目をつぶって話をしていればイメージを頭の中で作りあげ、まさしくそこにいる人と会話している気分になれるのではないのだろうか。

ということは我々は肉体、に人間味を見出しておらず、精神(ここでいくと話が出来るという対象)に人間味を見出していることになりそうです。

ここで昨今、精神や心というのは脳みそ?という議論が起きていますが、そうなると脳死判定の議論や人工移植への批判など道徳的な論争が巻き起こります。

骨髄移植をすると性格が変わった、好きなものが変わった、というデータは世界中で事例を更新していますが、では脳みそだけが人間足らしめているのではなく、身体の一つ一つ(脳みそを含め)が人間を形成している、という考えが正しく見えそうです。

そうなると、人工移植をして体の一部が他の人と入れ替わればもう同じ人ではない、とみなすことにもなりそうです。

いまだに熱く論争のある心身二元論VS心身一元論、どちら派ですか?