哲学をビジネスに。-思考武器の育成-

哲学、もっと言うとリベアルアーツ、教養を身につけることでビジネスで活躍、より生きやすくなる人を生産していきたい。

仮言命法と定言命法-本当の善とは-

今日も今日とて、哲学用語を学んでいくとする。(わーい)

まずは二つの基本的な語義についてだが、以下のようになる。
仮言命法=「もし〇〇だとすれば△△せよ!」
定言命法=「常いかなる時も△△せよ!」

特に定言命法は、カント倫理学における根本的な原理であり、無条件に「~せよ」と命じる絶対的命法であり、『人倫の形而上学の基礎づけ』 (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten) において提唱されている。

なぜカントは定言命法を支持したか?そこに今回の肝となる学びがある。

カントによれば、仮言命法における、もし〇〇だとすれば、を行動理由とする場合、その背後には、その命令を実行することによって得られる何らかの成果や利益となるような別の目的が存在する、と考える。

つまり、命令自体が目的にはならず、その命令を実行することによって得られる結果や利益に目的があり、仮言命法における命令の内容自体は、あくまで、そうしたより重要な別の目的を達成するための手段として位置づけられているに過ぎないと考えられることになる。

とある日、高齢の方が倒れているを発見すれば、もちろん読者の皆様は助けることと思う。(いや、そうであってくれ)

しかし、仮言命法の場合、助けること自体を目的とするのではなく、助けることで得られる地位・評価の向上や自己肯定感の高揚を目的とすることになる。

更に恐ろしいのは、もし時間があれば~、もし困っているように見えたら~、といった仮説を持ってきた場合に助ける義務が一掃されてしまうことにある。

他のあらゆる倫理学の原則は「~ならば、~せよ」という仮言命法であるのに対して、カントの定言命法は「~ならば」という条件が無い『無条件の行為』を要求する。

「果たしてそれは理性的なの?非道徳じゃない?前提や真なる目的が無くても、善行をすべし」というのがカントの簡単な主張になる。

ただ、ここに少し一石投じたい。

進化論的見地から言わせると、我々サピエンスが損得勘定と無意識にするのは何百年の歴史の中で培った生き残る為のツールである。

自己犠牲を図る種よりも、損得考えず行動する種よりも、何が自分にとってメリットがあるか考える種の方が生存率、繁殖成功率が高くなる。

その結果、損得勘定を持つ遺伝子が代々受け継がれ、現代の遺伝子の房にぶら下がっているわけである。

つまり、損得勘定をしてしまうこと自体は認められるべきであり、それ自体が醜いことではなく、それを受け入れた上で、人の為世の為に行動できるとよい。

日本は無神論者に思われるが、お金のことを考えたり、自分の利益を追求することがまるで犯罪かのように思われ、それをばれないように潜めている。

その結果「こんなことを考えてしまう自分はなんて小さい奴なんだ!」と自己否定する声を聴くが心配ない皆そうだ。(じゃなきゃ今頃ここにいないぜ)

自分を責める必要もなし、損得勘定を考えないようにする必要もなし、だがだからと言って善行をしないのはそれまた寂しい社会になる。

ここまで言えば何を言いたいか読者に伝わっているだろう。清く生きよ。