哲学をビジネスに。-思考武器の育成-

哲学、もっと言うとリベアルアーツ、教養を身につけることでビジネスで活躍、より生きやすくなる人を生産していきたい。

5分で哲学-食べられたい豚-

 

40年間もベジタリアンを貫いてきたというのに、マックス・バーガーは今まさに祝宴の席に着こうとしていた。テーブルには豚肉のソーセージやカリカリのベーコン、炒めた鳥の胸肉が並んでいる。

マックスはこれまでも常に肉の風味を恋しく思っていたが、肉料理を食べたいという気持ちよりも、自分のベジタリアンとしての信念の方が強かった。
でも今は後ろめたさ無しに食べることが出来る。

というのもそこに並んでいる肉料理はマックスが先週会ったプリシラという名前の豚の肉だったのだ。プリシラは遺伝子操作によって話すことができ、食べられることを臨んでいた。

命を終えて人間の食卓にのぼることが生まれてからのプリシラの強い臨みだと、目を輝かせながらマックスに話してすぐに食肉処理場に出発したのだった。その話を聞いていたマックスはその肉を食べないことは逆に失礼に当たると思った。

鶏肉の方は遺伝子操作によって形態を変えられて、徐能された鶏の肉だった。つまりその鶏は植物と同じで自分や周囲への意識も痛みや悲しみも無い。その肉を食べることはニンジンを引っこ抜いて食べることと変わらないのだ。

それでもいざ料理を前にするとマックスは強い吐き気に襲われた。ベジタリアンとして生きてきたから拒絶しているだけか、それとも精神的苦痛なのか。

ーダグラス・アダムス『宇宙のレストラン』安原和見訳/河出文庫

  

世の中には野菜しか口にしないベジタリアンがいます。宗教やその他の信念の元、豚や牛などの肉を食べないという方々です。

その理由には、
「食べられる為に飼育される動物が可哀想だ」
「植物はOK,動物を食べることはエネルギー搾取だ」
「生きるものを強制的に殺すことはダメだ」

など、飼育環境に言及するものや動物の肉を食べる必要性、生を途中で終わらせることへの道徳的問題があります。

本文中で遺伝子改良されて言葉を話せるプリシアは「私は大きくなって人間に美味しく食べられたいんだ」と話しています。プリシアは自分が食べられる為に生まれてきて、それを誇りに感じているようです。

こうして本人の意思があったとしても動物を食べることに反対している人は納得せず、食べることに反対するのでしょうか。もしそうだとすればそれはもうただの人間のエゴのように感じます。「自分だったら食べられる為に生きるのは嫌だから豚もきっとそうだ!」という価値観の押し売りです。

「豚さんはきっと食べられて嬉しいはずよ」という自己肯定がエゴであるように、「動物を食べるのはいけないことだ」というのも道徳上同様にエゴです。

一方で、植物のようになった鶏を殺して食べることはどうでしょうか。ニンジンを引っこ抜いて食べるのと何が違うでしょう。調理中に血が出たり、複雑な構造をしているから意識(便宜上脳みそと解釈)がなかったとしてもニンジンとは異なるでしょうか。

全動物に生きる権利があり、その為には他の命を頂かねばなりません。野生のライオンがシカを狩るように我々も食べる必要があります。

その過程で、冷蔵保存できる仕組みや人工交配などの科学(至極非道徳的に映りますが)が発達していなかったら、永遠に野生の動物を捕獲することにならないでしょうか。それこそ野生の秩序を乱すきっかけにならないでしょうか。

動物を人工的に誕生させ、飼育し、それを食べる循環が出来ている分、自然に優しいエコシステムとも言えます。(やはり道徳的な話は一旦隅っこへ)

ただ一方で、自然とは関係なく無限に(と言っても限界はあるが)供給を増やせるようになってしまった結果人間の増加に歯止めが効かなくなっているとも考えられます。

野生の食べ物が尽きて食べ物がなくなっていれば、自然に抑制がかかってここまで人間が増加することもなかったかもしれません。

でもそうなると、動物ではなく植物の大量摂取が起きていた可能性もあります。動物よりもエネルギーの少ない植物を主食にするということはそれだけ多く採る必要があるからです。

それは環境破壊という話ではまた大きな問題になり得る可能性があります。

現状が悪いと捉えるか、良いと捉えるか、それはただの結果論でしかなく、我々に必要なのは何を食べる、何を食べないと選り好みする立場になるのではなく、全てのエネルギーに感謝して生きていくことだけなのかもしれない。 

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